阪神タイガースと阪神淡路大震災
こんにちは。ぴぴです。
今日は、“阪神淡路大震災”から28年目になりますね。1995年1月17日午前5時46分、突然の出来事でした。
当時、私の自宅も被災に会い、建物の倒壊やインフラの停止、ケガ人と悲惨な光景を覚えています。
今回は目先を変えて、阪神淡路大震災と阪神タイガースの関係を、少し見ていきたいと思います。
では、参りましょう。
今日の阪神は?
場所は鳴尾浜球場です。午前9時57分
バックスクリーンには、球団の半旗が掲げられました。
阪神の百北球団社長、岡田監督、和田2軍監督たち首脳陣と職員、選手たち全員が1列に並び被災者に黙とうを捧げました。新人7選手を含む60人が参加しました。
岡田監督は、当時オリックスの選手でした。自宅も被災しています。当時は、チームの寮で生活したこともあったそうです。
「忘れられへんな。こっちで住んでたら忘れられへん1日。」と思い返していました。
当時は?
球場は?
甲子園球場では、いろいろな場所で亀裂が入ったり崩れていました。鳴尾浜球場では液状化現象が起きていました。
当然、寮の選手たちは帰宅させました。
在阪球団は?
当時の在阪球団は、阪神タイガース、オリックスブルーウェーブ、近鉄バファローズでした。
被災にあった現役選手も、たくさんいました。中には、自身や家族がケガをされたり、住む場所や生活することに困る選手たちもいました。現実問題、野球ができない選手もいました。
当時、オリックスは神戸をホームにしていました。「がんばろう神戸」を合言葉に初優勝しました。そして翌96年は、2連覇と日本一を達成しました。その頃のオリックスは、イチロー選手を筆頭に凄かったことを覚えています。
復興に向けては?
すべての球団は、様々なイベントを通して復興に向け行動を起こしました。選手たちによる球場や商店街での募金活動、炊き出しなどはよく覚えています。
それとは別に、現役選手やOBの方たちは、個人や団体などで行動に移している人が多かったように思います。当然、今でも続けていらっしゃる方もいます。頭が下がります。
2002年、阪神はヘルメットに「あしなが育英会」のシールを貼り、震災遺児たちを甲子園球場に招待しました。当時の星野仙一監督の発案だったそうです。
2022年、大正筋商店街(兵庫県神戸市長田区)では、掛布雅之氏など1985年優勝メンバーと、タレントの松村邦洋氏たちが復興イベントに参加されています。
掛布雅之氏は、当時の炊き出しボランティアのことを思い出し、「子供の笑顔がなくなった。」と振り返りました。また、「街は建物で復興と言えるかもしれないけど、人の笑い声がなければ本当の復興とは言えない。けれど心の笑顔を忘れずに頑張っていきましょう。」とメッセージを送りました。
いろいろなイベントを通じて、選手や球団関係者だけでなく、野球ファンたちも震災復興に協力しています。
地元の選手たちは?
佐藤選手は、震災後に生まれています。兵庫県西宮市の小学校で、授業やイベントなどで学び、身近に感じているようです。今は子供たちのために、野球での活躍や優勝を見せたいと思っているようです。
近本選手は、震災当時は生後2ヶ月でした。淡路島出身なので、小、中学生のときに地域の人から話を聞いたり、震災の記念館に行ったりしたそうです。
特に地元の選手たちは、幼少期に震災のことをたくさん耳にしています。今でも、たくさんの学校では伝えることが大事、と子供たちに学びの場を設けています。
最後に。
特に1月17日は、様々なイベントが行われています。参加している方たちの中には、震災後に生まれた方がすごく増えたように思います。
私は震災後の数年は、地震のたびにドキドキしていました。今でも大きい地震のときは、ドキドキし思い出します。
今までも日本では、いろいろな場所で大きな地震が発生しています。そして多くの人が被災しています。今後も発生すると予測も立てられていますが、私自身あまり準備にはつながっていません。
こういう日が来ると、少し考えることの大事さがわかります。
みなさんは、今日はどんな日だったでしょうか?
ありがとうございました。
ほな、また。